久恋の山 利尻
私の青春は蒸気機関車と共にあった。若き日々、東北、北海道に煙を追いかけて旅を続けた。昭和44年から昭和50年までの7年間ではあったが、カメラと三脚、テープレコーダーを担いで彼らを追いかけた。北海道には8回行き、函館本線のC62、宗谷本線のC55、釧網本線のC58、名寄本線の9600、室蘭本線のD51など、彼らのいる情景にどれほど心躍らせ、シャッターを切ったことだろう。また、数多く残された録音テープも、フィルムと共に彼らの生きた証しとして、そして私の青春の思い出として、手元に残されている。
特に、宗谷本線の稚内付近や、豊富付近のサロベツ原野からは、利尻の秀麗な姿を見ることが出来た。C55を追いかけながらいつも見ていたこの山に、憧憬と崇敬の念を抱くようになった。何と美しい山なのだろう、何と凛々しい山なのだろうと、日本海に浮かぶ姿に瞠目した。当時私は登山を趣味とはしていなかったが、利尻の孤高の姿を見るにつけ、いつかこの山に登ろうと心に誓った。
国鉄の鉄路から煙が消えてからは、海外の鉄道に足を伸ばした。76年に訪れた台湾の阿里山森林鉄道のシェイ・ギヤード・ロコや基隆炭鉱のボトムタンクは、ナローゲージファンの私には夢のような鉄道だった。そして極めつけは79年、インドのダージリン・ヒマラヤン鉄道だ。世界第3位の高峰、カンチェンジュンガが見える山腹を、等高線に忠実に敷設されたこの鉄道を訪れた幸せな日々は、忘れることが出来ない。ダージリンのホテルで飲んだ本場のダージリンティーが、私を紅茶党にし、本物の紅茶を求めていた時、(株)ガネッシュの社長と出会い、やがては自分で紅茶を扱うようになろうとは、この撮影旅行がなかったらあり得なかったかも知れない。
その後、私の趣味に転機が訪れた。80年秋に友人と吾妻縦走をしたことが、山にのめり込むきっかけとなったのだ。それまでは19歳の時に磐梯山、20歳の時に蔵王に登っていたが、その後はもっぱら蒸機を追っていたので、山には縁のない年月が続いた。しかしあの日、ピーカンに晴れた紅葉真っ只中の1泊2日の吾妻縦走は、私の山に対する潜在登高欲を目覚めさせてくれた。その年の霧氷の南蔵王縦走の後は、冬に入り、机上で雪山登山を学ぶ日々が続いた。
初夏の頃利尻に行こう!ひたすらにそう思って、まずは足慣らしにゴールデンウィークの七ヶ岳(田島)に向かった。残雪期の七ヶ岳は、平滑沢の上部から雪に覆われていた。山頂直下で、頭上の雪庇が崩落し、ブロック雪崩となってすぐ傍を崩れ落ちて行ったときは肝を冷やした。昼近くにそのような場所にいること自体、非常に危険なことなのだとは分かっていなかった。これも初心者ゆえの過ちである。雪山は、早朝に尾根に出る計画を立てなければならないのだ。
また、斜度が急な斜面では、教科書にあるような滑落停止技術は何の役にも立たない事を学んだ。滑落停止できるのはせいぜい斜度20度まで。それ以上では、教科書のような方法では停止することが出来ない。そして、20度以下の斜面では滑落などしないし、停止不可能な急斜面でこそ滑落するのだということも体験した。
単独行の場合の滑落停止技術を、その時私は編み出した。右足の前にピッケルを首まで刺し、2歩前進し、後方に移ったピッケルを抜いて再び首までさす。これを繰り返すことにより、たとえ滑落しても、手をピッケルから離さない限り、落ちることはない。その日、この方法で斜面のトラバースを克服することが出来た。以後、雪山の単独行では、私流滑落防止技術を駆使している。
さて、雪山の技術もそれなりに身につけることが出来たと思えたので、いよいよ利尻を目指すことになった。登山を始めてまだ半年なのに、心配よりも利尻への想いの方が勝っていた。5月末なので、残雪の山が想定される。冬山装備は必定だ。入念な準備をしたが、はたしてこれを暴挙と人はいうだろうか。
1981年5月29日、仙台19時24分発の特急「みちのく」に乗った(当時私は仙台に住んでいた)。青森23時50分着。翌30日0時10分発の連絡船「八甲田丸」に乗り、函館4時着。そこからは函館4時50分発の特急「北海」にて旭川11時13分着。昼食を摂ったのち、旭川13時1分発の急行「天北」で稚内に向かった。この日、北海道一帯は季節外れの寒波に襲われ、音威子府から先は積雪。中頓別では10cmの積雪となっていた。天気予報では明日は回復するとのことだが、果たしてどうなることだろう。
稚内には17時48分着。蒸機時代に利用したことのある旅館「さいはて」に泊まる。利尻島鴛泊行のフェリーは、荒天のため2日間欠航しているという。明日運行するかどうかは、朝にならないとわからないそうだ。ま、予備日を1日取ってあることだし、なんとか登山は出来るだろう。
翌朝、雪は止んでいた。フェリーは朝から運行するという。定刻から20分遅れた7時40分発の便は満員だった。利尻は、と見れば、中腹から上は雲に覆われていた。鴛泊着10時。10時5分に港を出発し、いよいよ登山開始だ。街を抜け、登山口に向かった。甘露泉の水場には11時に着いた。
そこからはひたすら登り坂となる。風も強かった。6合目(標高660m)に12時20分に着いたので、昼食とした。しかし風のために湯を沸かすのに時間がかかり、昼食を終えたのは13時15分になってしまった。そこから先は灌木の尾根を登り続けた。やがてハイマツ帯となり、山の上部を覆っていた雲もなくなって、青空に変わった。よかった!素晴らしい風景が期待できると思いながら長官山(標高1218m)には15時30分着。
そこで初めて姿を現した利尻山頂は、新雪に覆われ、純白の美しい三角形でそびえていた。まさに、低気圧一過の晴天の下、私の到着を待っていたかのように、最高に美しい姿でそこにそびえていたのだ。息をのんだ。何という好運だろう。長年あこがれていた山が、今日この時に、最も美しい姿を見せてくれているのだ。ただただ見とれ、夢中でシャッターを切った。
長官山には避難小屋がある。今夜の宿はこの小屋だ。しかし、扉は氷でガチガチに凍っていて、それをピッケルで叩き落すのが一苦労だった。小屋の中に入り、インスタントラーメンと珈琲でひと息つき、少し休んだ。
5月末、日は長い。日没まではまだ間があった。頂上を目指すのは明日だが、山頂方面に偵察に行くことにした。16時30分に小屋を出た。風は止んでいた。目の前の利尻の姿も凄いが、沓形稜の三眺山の絶壁、日本海に浮かぶ礼文島、眼下の鴛泊港など、遮るもののない絶景に感動した。凍り付いた雪面ではあったが、アイゼンの爪が良く食い込む固さなのが良かった。新雪とはいえ、ラッセルするような柔らかい雪ではなく、みぞれに近い雪が適度な硬さで凍ったのだろう。一歩、一歩気を付けて登れば、滑落の危険はなかった。とはいえ、万一滑落したら、1000mの大斜面を滑り落ちることになり、時速数百キロのスピードで樹木に叩きつけられ、体はバラバラになることだろう。絶対に滑落は出来ない。
標高1500m付近まで登り、夕景を眺めた。それにしても、私が登るその日に、利尻がこのような絶景を用意してくれるとは。ただただ感謝あるのみだった。夕日に輝く日本海と礼文島。そして、たそがれ行く空にそびえる利尻の姿。これらの光景を独り占めして、日没までしあわせな時間を過ごした。そして午後7時に避難小屋に戻り、夕食後は、利尻と二人だけの静かな夜の中で眠りに入った。
翌6月1日は3時50分起床。北海道の日の出は早い。外に出ると、まもなく日の出だった。そして登山の準備をし、4時30分に小屋を出て、山頂に向かった。アイゼンの効きも良かった。慎重に一歩ずつ登った。もちろん撮影をしながらだ。やがて標高1600mを越えた頃、目の前に雪庇状の雪壁が現れた。越えるにはずっと左にトラバースしなければならない。滑落の危険を伴うので、そこで引き返すことにした。山頂は踏めなくとも、もう十分に利尻を楽しむことが出来たのだから、思い残すことはない。安全第一である。
6時に引き返しを始め、避難小屋7時5分着。朝食後、8時20分に下山を開始した。6合目着9時5分。6合目を9時20分に発ち、甘露泉着10時。そこで小学生のグループに出会った。「あの山に登って来たのですか」の質問に「そうだよ」と答えたとき、「ふ~ん」と尊敬のまなざしで私を見つめてくれたことが、忘れられない。「君たちもいつか利尻に登るんだよ」「ハ~イ」のやりとりが、今回の山行の締めくくりにふさわしく思えた。10時10分に甘露泉を発ち、鴛泊11時10分着。その後はペシ岬付近を散策し、鴛泊15時30分のフェリーで稚内に向かい、私の利尻登山は終わった。
現在、利尻は百名山ブームで多くの登山者が押し掛け、5月末頃には、うんざりするほどの登山者に出会うことだろう。私が登った時には、一人の登山者に会うこともなかった。久恋の山利尻と、二人だけのしあわせな時を過ごすことが出来た。しかし、このようなことはもう不可能なことだ。二度と利尻を訪れることはないだろうが、それでいい。美しい思い出と共に、利尻は私の中で生き続けているのだから。
2020年1月記
特に、宗谷本線の稚内付近や、豊富付近のサロベツ原野からは、利尻の秀麗な姿を見ることが出来た。C55を追いかけながらいつも見ていたこの山に、憧憬と崇敬の念を抱くようになった。何と美しい山なのだろう、何と凛々しい山なのだろうと、日本海に浮かぶ姿に瞠目した。当時私は登山を趣味とはしていなかったが、利尻の孤高の姿を見るにつけ、いつかこの山に登ろうと心に誓った。
国鉄の鉄路から煙が消えてからは、海外の鉄道に足を伸ばした。76年に訪れた台湾の阿里山森林鉄道のシェイ・ギヤード・ロコや基隆炭鉱のボトムタンクは、ナローゲージファンの私には夢のような鉄道だった。そして極めつけは79年、インドのダージリン・ヒマラヤン鉄道だ。世界第3位の高峰、カンチェンジュンガが見える山腹を、等高線に忠実に敷設されたこの鉄道を訪れた幸せな日々は、忘れることが出来ない。ダージリンのホテルで飲んだ本場のダージリンティーが、私を紅茶党にし、本物の紅茶を求めていた時、(株)ガネッシュの社長と出会い、やがては自分で紅茶を扱うようになろうとは、この撮影旅行がなかったらあり得なかったかも知れない。
その後、私の趣味に転機が訪れた。80年秋に友人と吾妻縦走をしたことが、山にのめり込むきっかけとなったのだ。それまでは19歳の時に磐梯山、20歳の時に蔵王に登っていたが、その後はもっぱら蒸機を追っていたので、山には縁のない年月が続いた。しかしあの日、ピーカンに晴れた紅葉真っ只中の1泊2日の吾妻縦走は、私の山に対する潜在登高欲を目覚めさせてくれた。その年の霧氷の南蔵王縦走の後は、冬に入り、机上で雪山登山を学ぶ日々が続いた。
初夏の頃利尻に行こう!ひたすらにそう思って、まずは足慣らしにゴールデンウィークの七ヶ岳(田島)に向かった。残雪期の七ヶ岳は、平滑沢の上部から雪に覆われていた。山頂直下で、頭上の雪庇が崩落し、ブロック雪崩となってすぐ傍を崩れ落ちて行ったときは肝を冷やした。昼近くにそのような場所にいること自体、非常に危険なことなのだとは分かっていなかった。これも初心者ゆえの過ちである。雪山は、早朝に尾根に出る計画を立てなければならないのだ。
また、斜度が急な斜面では、教科書にあるような滑落停止技術は何の役にも立たない事を学んだ。滑落停止できるのはせいぜい斜度20度まで。それ以上では、教科書のような方法では停止することが出来ない。そして、20度以下の斜面では滑落などしないし、停止不可能な急斜面でこそ滑落するのだということも体験した。
単独行の場合の滑落停止技術を、その時私は編み出した。右足の前にピッケルを首まで刺し、2歩前進し、後方に移ったピッケルを抜いて再び首までさす。これを繰り返すことにより、たとえ滑落しても、手をピッケルから離さない限り、落ちることはない。その日、この方法で斜面のトラバースを克服することが出来た。以後、雪山の単独行では、私流滑落防止技術を駆使している。
さて、雪山の技術もそれなりに身につけることが出来たと思えたので、いよいよ利尻を目指すことになった。登山を始めてまだ半年なのに、心配よりも利尻への想いの方が勝っていた。5月末なので、残雪の山が想定される。冬山装備は必定だ。入念な準備をしたが、はたしてこれを暴挙と人はいうだろうか。
1981年5月29日、仙台19時24分発の特急「みちのく」に乗った(当時私は仙台に住んでいた)。青森23時50分着。翌30日0時10分発の連絡船「八甲田丸」に乗り、函館4時着。そこからは函館4時50分発の特急「北海」にて旭川11時13分着。昼食を摂ったのち、旭川13時1分発の急行「天北」で稚内に向かった。この日、北海道一帯は季節外れの寒波に襲われ、音威子府から先は積雪。中頓別では10cmの積雪となっていた。天気予報では明日は回復するとのことだが、果たしてどうなることだろう。
稚内には17時48分着。蒸機時代に利用したことのある旅館「さいはて」に泊まる。利尻島鴛泊行のフェリーは、荒天のため2日間欠航しているという。明日運行するかどうかは、朝にならないとわからないそうだ。ま、予備日を1日取ってあることだし、なんとか登山は出来るだろう。
翌朝、雪は止んでいた。フェリーは朝から運行するという。定刻から20分遅れた7時40分発の便は満員だった。利尻は、と見れば、中腹から上は雲に覆われていた。鴛泊着10時。10時5分に港を出発し、いよいよ登山開始だ。街を抜け、登山口に向かった。甘露泉の水場には11時に着いた。
そこからはひたすら登り坂となる。風も強かった。6合目(標高660m)に12時20分に着いたので、昼食とした。しかし風のために湯を沸かすのに時間がかかり、昼食を終えたのは13時15分になってしまった。そこから先は灌木の尾根を登り続けた。やがてハイマツ帯となり、山の上部を覆っていた雲もなくなって、青空に変わった。よかった!素晴らしい風景が期待できると思いながら長官山(標高1218m)には15時30分着。
そこで初めて姿を現した利尻山頂は、新雪に覆われ、純白の美しい三角形でそびえていた。まさに、低気圧一過の晴天の下、私の到着を待っていたかのように、最高に美しい姿でそこにそびえていたのだ。息をのんだ。何という好運だろう。長年あこがれていた山が、今日この時に、最も美しい姿を見せてくれているのだ。ただただ見とれ、夢中でシャッターを切った。
長官山には避難小屋がある。今夜の宿はこの小屋だ。しかし、扉は氷でガチガチに凍っていて、それをピッケルで叩き落すのが一苦労だった。小屋の中に入り、インスタントラーメンと珈琲でひと息つき、少し休んだ。
5月末、日は長い。日没まではまだ間があった。頂上を目指すのは明日だが、山頂方面に偵察に行くことにした。16時30分に小屋を出た。風は止んでいた。目の前の利尻の姿も凄いが、沓形稜の三眺山の絶壁、日本海に浮かぶ礼文島、眼下の鴛泊港など、遮るもののない絶景に感動した。凍り付いた雪面ではあったが、アイゼンの爪が良く食い込む固さなのが良かった。新雪とはいえ、ラッセルするような柔らかい雪ではなく、みぞれに近い雪が適度な硬さで凍ったのだろう。一歩、一歩気を付けて登れば、滑落の危険はなかった。とはいえ、万一滑落したら、1000mの大斜面を滑り落ちることになり、時速数百キロのスピードで樹木に叩きつけられ、体はバラバラになることだろう。絶対に滑落は出来ない。
標高1500m付近まで登り、夕景を眺めた。それにしても、私が登るその日に、利尻がこのような絶景を用意してくれるとは。ただただ感謝あるのみだった。夕日に輝く日本海と礼文島。そして、たそがれ行く空にそびえる利尻の姿。これらの光景を独り占めして、日没までしあわせな時間を過ごした。そして午後7時に避難小屋に戻り、夕食後は、利尻と二人だけの静かな夜の中で眠りに入った。
翌6月1日は3時50分起床。北海道の日の出は早い。外に出ると、まもなく日の出だった。そして登山の準備をし、4時30分に小屋を出て、山頂に向かった。アイゼンの効きも良かった。慎重に一歩ずつ登った。もちろん撮影をしながらだ。やがて標高1600mを越えた頃、目の前に雪庇状の雪壁が現れた。越えるにはずっと左にトラバースしなければならない。滑落の危険を伴うので、そこで引き返すことにした。山頂は踏めなくとも、もう十分に利尻を楽しむことが出来たのだから、思い残すことはない。安全第一である。
6時に引き返しを始め、避難小屋7時5分着。朝食後、8時20分に下山を開始した。6合目着9時5分。6合目を9時20分に発ち、甘露泉着10時。そこで小学生のグループに出会った。「あの山に登って来たのですか」の質問に「そうだよ」と答えたとき、「ふ~ん」と尊敬のまなざしで私を見つめてくれたことが、忘れられない。「君たちもいつか利尻に登るんだよ」「ハ~イ」のやりとりが、今回の山行の締めくくりにふさわしく思えた。10時10分に甘露泉を発ち、鴛泊11時10分着。その後はペシ岬付近を散策し、鴛泊15時30分のフェリーで稚内に向かい、私の利尻登山は終わった。
現在、利尻は百名山ブームで多くの登山者が押し掛け、5月末頃には、うんざりするほどの登山者に出会うことだろう。私が登った時には、一人の登山者に会うこともなかった。久恋の山利尻と、二人だけのしあわせな時を過ごすことが出来た。しかし、このようなことはもう不可能なことだ。二度と利尻を訪れることはないだろうが、それでいい。美しい思い出と共に、利尻は私の中で生き続けているのだから。
2020年1月記